【坂入尚文・不定期連載「まだ先へ」】

坂入尚文・不定期連載「まだ先へ」 第8回

「空室のイルミネーション」
 

 その家は廃屋だと思っていた。それというのも再開発されマンションが幾棟も建ち始めた駅前から、ひょいと曲がる狭い道にいきなり腐臭が漂い、家の脇雑草の中にニメートルの塵の山がある。ここには古自転車やダブルベットまで不安定に積み上げられ、ポイ捨てコンビニ袋の食べ残し、古机まで腐敗して、新品の町にここだけは無秩序が溢れかえっているからだった。
 それが最近話題となってるいわゆるゴミ屋敷ではないことは、ある夕方この家に明かりが点いてることで知った。
 家は二階建て二軒長屋となってる。片方は割れ吹き飛んだ看板に土建という文字だけが残り、明りは片方の一階に不動産という文字の中、色褪せたカーテン隙間から物音もせず、アスファルトを照らしていた。
 おそらくは再開発の波にも乗れず時代に取り残されたのか、ある時通りかかると七十代の店主だろうか、白いソファ掛けに身を沈めじっと目の前を見詰めているのが、この日はカーテンを開けたドア越しに見えたからだった。
 一方土建の方の壊れ方は尋常ではない。玄関も窓のガラスも割れ、見上げればニ階の窓も同じようにある部分は雨戸、新しいベニヤ色褪せたカーテンでも目隠しされ、それでも足りない窓はすでに雨水にふやけたダンボールを内側から貼ってある。
 なんとか家を守ろうとしたこの家の主に一体何が起きたのか、そういえば家の、この町にここだけがふさわしくない塵山は、暗く重い、ある種の唾棄を暗示しているように見えた。

 かなり前に都内千駄木から東武線の町へ引越して、旅のあい間は周辺をかなりほっ突き廻った。私の部屋は越谷にある。この二軒長屋は隣の駅蒲生。どちらもこの一体が元荒川の大きく蛇行する湿地帯であったことを地名が今に伝えている。
 経済が急成長した時代、湿地や水田の中に新興の家が並び始める。すると規模の小さなアーケード付き商店街がいくつかできた。私の部屋は最後まで残ったその中にある。
 この部屋で驚いたのは早朝四時に豆腐屋の仕事が始まることだが、煮上がった豆を けず り潰す機械の音が思いっ切りでかい。ちょうど枕元一階の対面にその音があることはいぢ悪大家は教えてくれなかった。
 その上表通りをトラックが走ると部屋は地震のように揺れる。それにも慣れて初夏になるとどこか暗渠にひそむコウモリが飛び交い、地名だけではない。住めばここが湿地であったことがアスファルトの町で実感もでき、揺れる部屋を楽しむ。
 越谷駅前にはローン会社や安売り宝石店も並ぶ。都内より家賃の安い町には外国人も増えた。足を伸ばせば途中に小さく、形ばかりのイスラムモスクもある。そして急行の止まらない蒲生駅近くには私の好きな安食堂があり、問題の二軒長屋はちょうどその前にあるのだ。

 ときわという食堂は都内に何軒もある。だが蒲生のときわは格別に安く、現在でも昼定食は五百円。これからも時代は激しく変わるだろうから、ちなみに都内のときわはここより百数十円高いことを記しておく。かってこのあたりは都内の建設現場などで働いた若い労働者の町であった。
 その名残りは、今は雑工というかっての土方がたびたびこの店に酒を飲みに来ることでわかる。私より年上のその日暮し、土方たちはいつの間にか私をテキヤと見抜き、どこかシンパシイでもあるらしく、長旅から帰った時などはしきりに旅のことを聞き出してうさを晴らせていた。
 ある時この店に見慣れない男がふらりと入ってきて、ちょうど空きのあった私の前に座る。痩せた男は五十才がらみ、身なりは気を使っているが安物であることがすぐにわかる。その上前歯がほとんど抜け焼酎ハイボールのつまみ、ふやけた締め鯖にも苦労しているのを見ればあるいはシャブ中、そう睨んでこの日は話をしなかった。
 それが当たってるのを知ったのは四、五回、いつも締め鯖だけで酒を飲む男をみかけるようになってからのことになる。その夜彼は「御苦労様です。相席いいですか」と聞いてきたのは誰からか私の職業を聞いたからだろう。「御苦労様」はいわゆるヤクザの挨拶だった。
 このような食堂で酒を飲むのは私にしてもうさ晴らしであることは知っている。高市のあい間、長旅からの帰還。そんな時に一日の仕事を終えやっと酒に有り付いたような人たちを見て私も救われる。過酷な仕事のことは忘れてしまうに限る。そこに話し相手がいれば酒はなおさら旨い。類型的に見ればこの男も出世なぞ無縁なその日暮らし、「一杯飲みますか」と勧めたハイボール三、四杯目でおおよその境遇を知ったがそれは有りふれていた。

 高市明けはいくらか懐が温かい。その後Tちゃんと呼ぶようになった男はある時驚くことを教えてくれた。実はTちゃん、食堂目の前のあの二軒長屋に一人住んでいたのだ。
 Tちゃんの親は町鳶だった。町鳶は鉄建鳶とは違いビルや橋などの現場を追ってあまり移動はしない。主に町の現場や祭礼などを受け持ち、なんでも屋のように日々を過ごして行く。都市化の進む町ではその仕事もなくなり、親が他界すると一人では生きて行けない。そのうちに悪い薬を覚え、懲役に行っているうちに家が荒らされてしまったのだ。
 Tちゃんのことを知る前からあの家の塵山は片付けられていた。そのうちに窓にはすだれが掛けられる。いつの間にか小さな風鈴も風に揺れ玄関脇に植木鉢が並んでいるのを見ると誰かが手を入れ始めている。それもこの地に似つかわしくない町家的古風なので、住んでいるとすれば老人かと思いながら部屋から明りが漏れていることは一度もなかった。Tちゃんはその頃に出所していたのだ。
 Tちゃんはその家に住んでいると聞いて、まずはそのことが気になる。だってその家電気引いてないんじゃないの。いつも真暗じゃないか。窓も開いていることがない。
 そう聞くとTちゃんは少しむきになって電気くらいはあるという。それならなぜいつも暗いのか、変だねそれ。するとTちゃんはガスもあるけれど煮炊きはできないと話題を変えた。家でお茶くらい入れますけど。
 私はこれまでに何人かのシャブ中毒の人と話したことがある。一応の更生はしても被害妄想は残り、中にはフラッシュバックという、薬物は断っていながらその時と同じような精神状態となり暴れ出す症状は、脳の伝達物質の異常分泌が原因なのだろうが、アルコールにも同じ作用がある。

 ある夜食堂へ行こうと暗い高架下を歩いていると御苦労様ですとTちゃんが声を掛けてくれた。それじゃ一杯やろうかと聞けば今日はもう飲めないという。
 この町には嫌われ者のアル中がて、寒かろうが暑かろうがアスファルトにへたり込み、腹の底からのダミ声でなにかわめいている。女性の通行人は大廻りしてこの男を避ける。それが時折姿を消すことがあるのは豚箱へ放り込まれているからだと、食堂の常連が教えてくれた。
 この男の家はやはり高架下の道際にある。二階家の家はようやく隙間に建てたように小さく、玄関も二階窓もガラスが割れ黒い塵袋とガムテープで雨風の侵入を防いでいるのを見るとふっとおかしい。自分で割ったガラスだろうから。
 ある時この下を見ると男が二階の窓を開けてわめいている。見上げると目の合った男はまだ酒の入ったワンカップを私に向けて投げる。まるで肉を加えた犬が端の上から川面に映る自分の姿に向かって吠え、肉を落としてしまうイソップの寓話ではないか。
 さてTちゃんが声を掛けてくれた夜、Tちゃんはもう酒を飲めないという。どこで飲んでいたのかを聞くと、この男の家に上がり込んでいたのだ。
 この男の家も明りが点いたことはない。再開発の町の嫌われ者二人は、どうやら蝋燭でお互いの顔を照らし、すれ違いの会話に機を紛らわせていたらしかった。

 ある夜Tちゃんの脈絡のない話を聞き流していると家にイルミネーションがあるという。イルミネーションどころか電気もない家と思っている私は、それなら見せてくれと少し気色ばんで見せた。するとしばらく黙ったTちゃんは本当にあるのだという。それは部屋の中にあると。
 実在しないものが見える場合がある。古い友人が白い絵を完成させたので見てくれと連絡してきたことがある。地方の町の古畳の上に絵はキャンバスに白もメディウムも塗った形跡がなく、その後友人は長い闘病生活に入る。それなので私にはイルミネーションを見たいという気分と見たくない気分が半々にある。

 この夜Tちゃんが私を家に入れてくれる決心をしてくれるまでにはかなりの時間と、何杯ものハイボールを必要とした。ようやく食堂を出て向かいの家に道を横切るころには人通りが断えている。壊れた引戸には小さな南京錠が取り付けてあり、中腰でこれを開けようとするTちゃんは薄暗がりの中、度の強い眼鏡を使っていてもすぐには開かない。後に突っ立っている私はちょうど通り過ぎるタクシーの運転手がミラー越しにこちらを伺い、さぞかし不審に思っているだろうと思いながらTちゃんと私というおかしな取り合わせと、今まさに判明する結果に胸の高鳴りがあった。長い間無人であった家の引戸にはくせがある。ガタピシようやく開けて中に入ると生活臭の替りに黴の匂いがして、そのことがTちゃんの孤独を感じさせる。
 玄関はセメントのたたきとなっていて正面は二階への階段、右にのびるたたきは、おそらく事務所だろうとあたりを付けてすぐに引戸は閉められ、ようやく隙間明りの中でTちゃんしゃがみ込んで何やらやっている。目をこらすと内側からも南京錠を掛けているのだ。
 やはりこの家には電気がない。そう思うと不安が頭をもたげる。そんなことにはおかまいなく、日々馴れているTちゃんは右奥の中からこっち来てくださいと呼ぶので腹を決め、おそらくないであろうイルミネーション、そしてTちゃんと対決するような重い気分。手探りで事務所の中に進んだ。
 するとTちゃん、ちょっと待っててくださいと玄関の方へ、私の横をすり抜けて行ってしまった。それからの時間はかなり長い。
 家の裏手は鉄道高架のホームとなっている。けたたましく急行が通り過ぎると次は待っていた各駅停車が発車し、徐々にスピードを上げて遠ざかれば急にしんとして、玄関天井あたりに人の動く気配がある。
 暗い中で一体いつまで何をやっているのだ。不安不信そしてわずかな期待。胸の内を探ればそんなところで、黴臭い闇の中に立ち尽くす私は思わず声を掛ける。答えはあっけらかんとして、「もうちょっと待ってください、面倒なんです暗いからよけい。もうすぐです」と来た。照明もない家そのものが不可思議ではないか。

 そしていきなりイルミネーションが、本当に点く。それは青一色、米粒球の連らなりそして、敷地にあわせた変形四角形の天井にぐるり直線で張り巡らされ、闇の中におぼつかない怜悧な光をようやく足元にまで届け、事務所全体をようやく浮かび上がらせる程度のつつましさ、その意外に私は立ち尽くした。

 気付くといつの間にかTちゃんは私の横に立ち同じ方向を黙って見ている。イルミネーションにはスイッチというものもない。その電気をどこからどのように引いたのか、目が慣れると几帳面に整理された部屋には神棚もある。そして新しい しきみ が正しくこちらに向けて生けてあった。
 Tちゃんの父親は町鳶だったことを思い出す。目を凝らせば暗がりの奥壁に二着の印半纏が並び、聞けば片方はTちゃんのもので片方は父親のものだった。
 これが嫌われ者の、この町の金もないヤクザの正体であろう。Tちゃんは日々一人、イルミネーションの下で黙しているのだ。

2013年7月

 
 
©2011, Misemono Gakkai, All Rights Reserved.
 
inserted by FC2 system