【坂入尚文・不定期連載「まだ先へ」】

坂入尚文・不定期連載「まだ先へ」 第7回

「異形伝説」
 

 一人旅のテキヤは非常に少ない。
 まして九十三才という高齢でありながら、旅先のドヤで息を引き取った鈴木茂さんのことを知った時、行旅死亡人という言葉が頭をかすめながら衝撃を受けたのは、死の直前にある町のソバ屋で最後の会話を交わしたからだったかも知れない。
 鈴木さんとはまだ駆け出しの頃に出会っている。多くのテキヤが一家一族という単位で移動する中、年に数度行き交う彼はいつもひょうひょうとしていて飴屋さんはどこを廻っていたかと声を掛けてくれる。そして私の知らない町々のことを教えてくれるのは一人旅の共感があったからだろうし、業界に対する違和感も共通のものとしていつもあった。
 立ち話のことで正確なことは失念している。鈴木さんはどこか関東の町、生家は米屋だったと聞く。
 この町では地方でよく聞くように、太平洋戦争も敗戦後も祭を欠かしたことがない。敗戦直後のテキヤの中には高齢者や徴兵検査不合格者の中にくたびれた軍服のままの復員兵が幾人といる。鈴木さんも同じ戦地帰り、飢えやつれた彼等に見かねて親と争うように配給の米を横流しすると、そのままテキヤを追って家を飛び出してしまった。
 戦地帰りとして何もかも信用できないという心の働きがある。いざテキヤになってみるとそれが変わった。野宿さえそれは明日もこの人たちと一緒に生きるのだという信頼に裏打ちされ、死におびえた戦地のように苦しくはない。生きている気がした。すると、兵隊のように殴られることもなく働くことがなおさら嬉しい。米を横流ししたこともあり、鈴木さんはすぐに真打ちとして認められる。
 テキヤには稼ぎ込みという期間がある。わかり易くいえばかって商家などのデッチ、衣食住を保障するが給金は駄賃程度。テキヤはその期間をおおむね五年として、その間に礼儀、作法も覚える。この仕組は三十年程前から変わりつつある。真打ちは、その期間を経て商売を任せられる。鈴木さんの店はカルメ焼のブッカキだった。
 一家には去年このネタで生計を立てる古老がいた。そろそろ引退となって親方の勧めもありこれを鈴木さんが引き継ぐ。
 このような場合、引き継いだ者は先代の逝去まで売り上げの一部を先代に払うことになるが、その額は相対で決める。ブッカキとはひとつひとつのカルメを鍋で焼くのではなく、銅版一面に流したものを割って売る。戦中戦後の物資不足の間にだけ流行ったネタのようだ。熱源は墨を使った。
 当時の移動は列車やバスを手段とすることが多く、夜も歩いて移動した。そのため現在のような三寸は持たずできる限りの軽量化を図る。
 その点、ブッカキはザラメ党 当時の移動は列車やバスを手段とすることが多く、翌日も高市なら夜も歩いて移動した。そのため現在のような三寸は持たずできる限りの軽量化を図る、その点、ブッカキはザラメ糖と鍋や炭、銅版などの道具が多く、又重い。そのことは行軍で慣れていたが、先代はおよそ一年間鈴木さんに付いて廻り、季節や天候によるネタの仕込みを教えてもくれた。
 商売がうまく行けばドヤにも泊まれる。そうであってもドヤのない町がある。半分は野宿となるこの旅で鈴木さんはカルメ焼の技術というよりテキヤの仕方ない精神を身に付けたようだ。
 オート三輪が出回る時代となれば手に入れる金くらいはある。旅は飛躍的に足を伸ばした。
 同時にこの時代、鈴木さんはそれまで知らなかった地方のテキヤと出会うことになっただろう。たとえば南方の砂糖キビはやや発酵の甘酸っぱい香りを放ち、ナタで叩き切っただけのものが人気を集め、たとえば港町のテキヤは冷めの卵を食紅に染め海ほうずきと偽り、下町からはモール細工や樟脳線、飴細工や針金細工や十徳ナイフといったなにやら伝統的であるらしき文化の驚きを地方に運ぶようになる。鈴木さんの少し先輩、やはり戦地帰りのワシズ(文字不明)というテキヤは軍刀を潰した銅で作ったというヤリトリ(鋸)で木に打ち込んだ釘までを切って人を集めている。

 長い長い旅でネタはいろいろと変えた。そして年老いてくると子供たちが無性に可愛い。晩年はミニ射的で子供たちの人気を集める。
 それまでの射的は木製の銃床と鋳物の銃身による。手に持てばズシリと重い兵の体験を、頼りないコルク玉ポンと打つ、大人の諧謔が人気を集めている。戦争を知らない子供たちは銃の重さに驚きはしても、とうてい照準を合わせる腕力がなかった。
 テキヤの業界では本来射的は見世物業界の権利であると認めている。つまり射的は見世物業界の許可を得なければテキヤはネタとすることができず、関東を中心とする間口七尺の三寸の中に、射的は二間巾という大きな三寸を使うことも認められていた。ちなみに高市の中に間口六、七間、興行同等の見世物小屋が現在も生き残っていることは、かって見世物学会理事長、東京中心の見世物分方、西村太吉親分がいっていた。元々高市は興行が中心であり、(戦後の)テキヤはその脇に三寸を並べさせてくれと頼みに来たという発言と照らし合わせ、見世物小屋と三寸の大きさによっても力の関係を裏付けられることになるだろう。

 鈴木さんはひょうひょうと、いわばふたつの部族の境界を越えたことにもなる。
 ミニ射的はピストル型の軽い銃で子供たちの人気を集め三寸は十二尺とした。それまで七尺を基準とする三寸を十二尺とした背景には、新興のテキヤ集団の力があったかもしれない。

 変貌する時代の風を正面から受けて鈴木さんは長く生きた。
 鈴木さんと最後に会ったのは羽幌の高市でのことで、その時のことも良く憶えている。それは鈴木さんがこの高市を終え、春近く他の町の宿、布団の中に発見された日の六日前にあたる。宵宮の支度を終えたソバ屋でのことだった。
 羽幌にはテキヤの好きな山崎というソバ屋がある。すでに昼食時を過ぎ坂道途中のガランとした店に飛び込むとカウンター奥に鈴木さんがソバをすすっている。久し振りと声を掛ければ飴屋さんどっち廻ってたといつものように、そして心なし声が小さい。思わず横から首を廻し覗き込んだ顔が胸を突いた。
 一年のうちに鈴木さんと会うのは四、五場所に過ぎない。それも多くの場合雑踏の中で、それでも数十年という時の中で私には私の鈴木さん像ができている。すでに十年以上前から進む白内障は、この時限界ということを感じさせ、一枚のザルソバをすする時間は常人の二、三倍となっている。それでも軽のワゴン車を一人走らせて、この町へたどり着いていたのだった。

 この時も鈴木さんは変わり果てたテキヤのことを話した。それは高市の行く末を案じてのことで、常に自分が有利に金を稼ぐことにはつながらない。
 他の古老からも聞くこともある高市は町として人を楽しませることに意味があった。そのためにテキヤは人を驚かせ喜ばせることに腐心する。そのためにテキヤはネタを考えあぐねた。それが今は違う。なにかが、たとえばお好み焼きが売れるとなれば、力のある者はそれまでそこにあったネタをこぞって追い出し、珍しいネタは人のあまり歩かない所場へと追い払われる。そのために単調となった「町」は魅力を失い、事実多くの高市は 下足 げそ の止らない、大高でさえ終い日には人の来ない、つまらない場になってしまっている。
 かってテキヤの手板を扱う高市の中心人物は、まずは人の流れを考慮して珍奇なネタの所場を決め其後に、流行の売れるネタをその間に配置していた。たった三日間しか出現しない町だからこそ。
 羽幌の高市終えて鈴木さんは三日後に他界した。そのことはその後、およそ二ヵ月後の大高で知る。
 すると次のボサ高でこの地方の親方が話し掛けてくる。彼の追悼をやろうと思うがどう思うか。私はぜひやってくださいと答えた。普通テキヤの葬儀などは彼の属する組織が行う。この地方の親分は全く別の系統だった。
 場所は鈴木さんが元気なころ必ず顔を見せたボサ、川湯温泉と決まる。追悼会にはこの地方を巡るテキヤ百数十人が参加した。
 本来テキヤはけして組織なぞではない。川湯温泉の一角にはテキヤ見世物屋共通の、異形の老神、神農黄帝が祀られていた。

2013年7月

 
 
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